2008年3月28日金曜日

ラッセル「哲学入門」①

 かえる2号です。
 今、バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、「哲学入門」(ちくま学芸文庫)を読んでいます。2章まで読んで、ラッセルの哲学に対する姿勢に感動したので、とりあえず第1章「現象と実在」の内容をまとめてみました。カギカッコの中は引用です。

 「理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。」という文からこの章は始まる。ラッセルは「日常生活で、確実なものとして受け入れている多くのものも、吟味してみれば明らかな矛盾に満ちているのが分かる。」として、テーブルに対する考察を始める。この考察を通じて、「現象」と「実在」の区別を説明し、①実在のテーブルはあるか、②もしあるならそれはどんな対象でありうるか、という問題提起をする。そして、センスデータ(感覚によって直接しられるもの)と物質(実在のテーブルを物的対象とよんだとき、全ての物的対象をひとくくりにしたもの)を定義し、先の問題を①物質のようなものがあるか、②もしあるならその本性は何か、という二つの問題に整理する。不合理を犯すことなく「物質」の存在を否定できること、そして私たちから「物質」が独立に存在したとしてもその「物質」は感覚の直接の対象にはなれないこと、を初めて示したとして、バークリが紹介される。ただし、バークリが存在を否定した「物質」は、「心」と対比される、つまり心でも観念でもない。実際バークリは感覚の対象となる「何か」が私たちから独立に存在することは認めていて、それが観念であるとした。バークリにとって実在のテーブルは神の心の中の観念である。そして、バークリのような、心と観念以外には何も実在しないとする観念論者(ラッセルはもう一人の例にライプ二ッツをあげている。バークリにとって、物質は観念の集まりであり、ライプ二ッツにとって、物質は多少未発達な心(モナド)の集まりである。)とは異なる立場(まだわからない)をとることを表明する。そして、物質の存在は全ての哲学者が同意するとして、その理由について次章で考えるとする。ラッセルは章の最後を次のような言葉で締めくくる。「このように、哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力 は持っている。そして問いを立てることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふ  れたもののすぐ裏側に、不可思議と驚異が潜んでいることを示すのである。」

 正直、この本を読むまで、哲学はほとんど何も恒真なことを見つけだすことは不可能だと思っていました。そのくせ、哲学者は哲学がこの世のすべてを語りうる可能性を持つと信じていると。しかし、そのような考えはこの本によって一掃されました。ラッセルは謙虚に哲学の限界を認め、確実な議論と不安定な推論を区別しながら進んでいきます。その謙虚さは第2章でさらに発揮されます。そのうちまとめたいと思いますが、大体は、ラッセルはバークリの説やライプニッツの説が否定しえないとしながらも、あえて物質が存在しないと認める理由もないと説きます。哲学的議論と数学的証明の違い、科学と哲学の共通点などいろいろ考えさせられました。今まで読んだ哲学書(そんなに多くはないですが)の中で、1番共感できる本です。

3 件のコメント:

かえる さんのコメント...
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かえる さんのコメント...

かえるです。
 ラッセルと聞くとついラッセル卿と呼びたくなるのは僕だけでしょうか。彼の哲学については詳しくないけれど、彼のこんな主張を聞いてはっとしたことがあります。「我々は我々が幼少時代に受けた教育の影響を完全に排除することは出来ない。しかし、それは必ずしも悲観するべきことでもない。」うろ覚えだし、出典も分からないのだけれど。
 
 哲学をどのような心構えの下に進めればいいのかというのは、なかなか自分でも分からない。論理という根底にあるルールはあったとしても哲学者によって哲学全体に向かう姿勢は随分と違うから。ヘーゲルは、ラッセルとは対照的に、哲学が世界の全てを説明できると考えていたと思う。例えば高校の自研で読んだ「哲学史講義」では、全てのものは否定されて発展していくというモデルは哲学だけでなく社会一般にも適用されていた。
 哲学が世の中の全てを説明するモデルを提供しうるかどうかというのは、非常に興味深い問いだと思う。

 かえる2号の要約力に感謝。続編に期待です。今俺はハイデガー哲学の入門書を読んでいるんだけれど、読み終わったらニーチェに戻るつもりです。

匿名 さんのコメント...

うーん。だいぶ前に5章まで読んだけど、最近忙しくてまとめる暇がありません…。もう少しかかるかな…