2008年10月19日日曜日

西洋哲学史

やりはじめました。

最近哲学を勉強する意味というか理由に困ってる。
そもそも理由が必要なのかどうか、ということも含めてね。
哲学を「勉強する」っていうのも不適切な表現?

2008年5月21日水曜日

抽象的思考

かえる2号です。かえるが自分のブログに書いてたんで触発されて。

抽象的な思考はわかりにくい。確かに共感できる気はする。
まず、抽象的な思考の対象には名前を付けなければならない。(これが、自然言語による名前でない場合もあるが、現実の対象そのまま思考の対象にしているのではないという意味。)このとき、名前を覚えるのがめんどくさい。新しい学問を学ぶときに最初にしなければならないのが、この名前を覚えることだと思う。
次に、抽象的な思考の対象のふるまいを覚えなければいけない。これがないと抽象的な思考によって、何かを導き出すことはできなくなる。しかし、これもまためんどくさいし、数学などでは、これにかなりの時間を費やすことになる。

抽象的な思考は正確でない。これも個人的に共感できる気がする。
抽象的な思考を、現実の事例から一部の側面だけを取り出して思考することだと考えてみる。この場合、そうやって思考した結果は現実の結果にそぐわない可能性は大きいだろう。実際、物理学においては、計算能力的な理由で、自然に対して近似(つまり上の意味での抽象化)を行う。近似が荒い場合、現実と大きく離れた結果がもたらされる。こうみると、抽象的な思考は正確でないといえるかもしれない。
また、抽象的な思考の多くは、命題に量化子が付いている。つまり、「すべての~は」とか「~は存在する」が文章についている。これにより、現実の対象を考えずに思考することができるが、量化子が付いている命題を導き出すのは難しい。「すべての~は」というのは難しいので、条件を付けて「すべての~である~は」のようにすることが多い。この場合、思考では条件をつけ忘れたり、間違ったりして、間違った結果を導き出すこともある。まあ、これは抽象的な思考が正確でないというよりは扱うのが難しいということだけど、これにより抽象的な思考が正確でないと思われることはありうる。
さらに、ここで考えたような抽象的思考でなく、もっと一般的に抽象的思考といわれるようなもの、議論の相手を黙らせるために用いられるものの多くや、一つや二つの事例から「すべての~」としてしまうような思考は、不正確といえるだろう。

2008年4月14日月曜日

おもしろい本

久しぶりです。
大学の図書館でちょっとおもしろい本を見つけたのでお勧め。NHK出版の出している哲学人という本。かえる2号は必要ないかもだけど、哲学する時の不安とか焦りとか、はたまた哲学の楽しみみたいなものをとても分かりやすく紹介してある。哲学の中身はちゃんと読んでないけれど、Ⅰ章にある筆者の哲学に対する態度がやけに親しみやすい。 ちょっと自慢みたいに読めなくもないけれど、時間つぶしにはいい本だと思ったよ。

2008年3月28日金曜日

ラッセル「哲学入門」①

 かえる2号です。
 今、バートランド・ラッセル著、高村夏輝訳、「哲学入門」(ちくま学芸文庫)を読んでいます。2章まで読んで、ラッセルの哲学に対する姿勢に感動したので、とりあえず第1章「現象と実在」の内容をまとめてみました。カギカッコの中は引用です。

 「理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。」という文からこの章は始まる。ラッセルは「日常生活で、確実なものとして受け入れている多くのものも、吟味してみれば明らかな矛盾に満ちているのが分かる。」として、テーブルに対する考察を始める。この考察を通じて、「現象」と「実在」の区別を説明し、①実在のテーブルはあるか、②もしあるならそれはどんな対象でありうるか、という問題提起をする。そして、センスデータ(感覚によって直接しられるもの)と物質(実在のテーブルを物的対象とよんだとき、全ての物的対象をひとくくりにしたもの)を定義し、先の問題を①物質のようなものがあるか、②もしあるならその本性は何か、という二つの問題に整理する。不合理を犯すことなく「物質」の存在を否定できること、そして私たちから「物質」が独立に存在したとしてもその「物質」は感覚の直接の対象にはなれないこと、を初めて示したとして、バークリが紹介される。ただし、バークリが存在を否定した「物質」は、「心」と対比される、つまり心でも観念でもない。実際バークリは感覚の対象となる「何か」が私たちから独立に存在することは認めていて、それが観念であるとした。バークリにとって実在のテーブルは神の心の中の観念である。そして、バークリのような、心と観念以外には何も実在しないとする観念論者(ラッセルはもう一人の例にライプ二ッツをあげている。バークリにとって、物質は観念の集まりであり、ライプ二ッツにとって、物質は多少未発達な心(モナド)の集まりである。)とは異なる立場(まだわからない)をとることを表明する。そして、物質の存在は全ての哲学者が同意するとして、その理由について次章で考えるとする。ラッセルは章の最後を次のような言葉で締めくくる。「このように、哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとしても、問いを立てる力 は持っている。そして問いを立てることで、世界に対する興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふ  れたもののすぐ裏側に、不可思議と驚異が潜んでいることを示すのである。」

 正直、この本を読むまで、哲学はほとんど何も恒真なことを見つけだすことは不可能だと思っていました。そのくせ、哲学者は哲学がこの世のすべてを語りうる可能性を持つと信じていると。しかし、そのような考えはこの本によって一掃されました。ラッセルは謙虚に哲学の限界を認め、確実な議論と不安定な推論を区別しながら進んでいきます。その謙虚さは第2章でさらに発揮されます。そのうちまとめたいと思いますが、大体は、ラッセルはバークリの説やライプニッツの説が否定しえないとしながらも、あえて物質が存在しないと認める理由もないと説きます。哲学的議論と数学的証明の違い、科学と哲学の共通点などいろいろ考えさせられました。今まで読んだ哲学書(そんなに多くはないですが)の中で、1番共感できる本です。

2008年3月20日木曜日

事務連絡?

・編集者がかえるとかえる2号ってものっすごい分かりにくくない?笑

・携帯から投稿できるって知ってる?(gobloggerっていう機能がある)

・ブログタイトルこんなんでいいかな?

・このブログの存在を自分のブログで告知していいですか?

・またビリヤード行こうぜい。笑

こんにちは!

このブログのもうひとりの編集者、かえる2号です。主に普段考えなくてもいいけど、考えるとおもしろい(かもしれない)ことを考えてみたいと思ってます。早速ですが、今日電車に乗っていて思ったこと。ありきたりな結論ですが。

 人生において学問をやる意味を考えてみたい。
 何故学問をやるのだろう。学問は必ずしも人生に必要なものではない。有名になったり業績を上げて歴史に名を残すような小数は別にして、うだつの上がらぬ研究員や、日頃サラリーマンしていて休日に少しだけ学問をする意味はなんだろう。
 最大の理由は学問がおもしろいからだろう。では、何故面白いのか。
 人生における1番の楽しみは人とのコミュニケーションだと言う人がいる。全くその通りだと思う。実際この世で一人だったらと想像すると(哲学的な問題は置いておいて)気が滅入る。きっと淋し過ぎて気が狂ってしまうだろう。
 学問の面白さというのは人とコミュニケーションをとる面白さと同じだろう。書物を読むことは過去の人の話を聞くことだし、書物を書くことは自分との対話にもなり、もし後で読まれることがあれば未来へと話しかけることにもなる。学問について今生きている人と突っ込みあうこと(このブログのように)もできる。
 しかしこれは別に学問である必要はない。普通に会話するのも、音楽を聴くのも、スポーツをやるのもコミュニケーションに違いない。では、学問に特有の面白さはなんだろうか。
 学問の一番の特徴は、世界の別の見方を教えてくれるというところにあるだろう。これは学問の方法論とその成果を学ぶという意味で、どんな学問にも共通することだと思う。別に学問でなくても世界の見方を教えてくれるものはある。たとえばいい小説は、いつもの視点と違ったとらえ方を教えてくれる。だが、小説で世界の見方がないものがあっても、学問で世界の見方がないものはない。なぜなら、世界の見方はその学問の方法論であり、方法論がなければ(別に方法論が明確に示されてなくてもいい)学問はその体をなさない。
 つまり、学問に特有の面白さとは、世界を見る別の見方を教えてくれる点にあると思う。

2008年3月16日日曜日

ついに開設?

このブログの編集者1、かえるです。このブログは考え事をしたい人間のための、いわばお絵かき帳です。考え事にアウトプットとフィードバックは欠かせない!ということで、考えたことをアップロードしお互い突っ込むことが主な活動になるはず・・・?とりあえずもう一人の編集者の登場を待つとするか。